Dialog - somewhere in the World.

きっとどこかにある日常

アルツハイマーの祖父

バイオリンを取りに祖父母の家まで行って、この前インフルにかかって入院時にアルツハイマーが進みまくったと聞いてた爺様に会ってきた。

人の記憶というのは所詮細胞の電気信号云々であって、というのは些か冷たい言い方に聞こえるだろうけれど、それだけ人の記憶というのはあっけなくこぼれ落ちるものなのだ。

昨日は何の疑問もなく登っていた玄関前の階段を見て「こんな急な階段なんてあったか?」と二十数年前に引っ越した実家だと取り違え、まだ若かった頃、仕事をして苦労をしていた記憶が今の記憶にすり替わり、「仕事に行かないとクビになる、親にお金を送らなければ」と仕事に行こうとする。孫はともかく息子と娘の顔も覚えていないことは当然で、数分前のこともほぼ覚えていない。若い頃に貸家をしていて、そこに住んだ若い男性と一悶着あったからか、若い男に対しては基本的にあんまりいい顔をしない。優しくしてくれる人には普通に接するが、相手が誰かはほとんど認識してない。

けれど一つだけ普通の記憶と同じように覚えて忘れないでいることがある。

「自分が嫌だと思ったこと」だ。

否定されたこと。自分の考える通りに行かなかったこと。ちょっとイラっとしたことだけは絶対に忘れない。人間が思考と記憶を徐々になくしていった先にあるのは、本能の欲と危機感覚なのだろう。誰が自分に危害を加えるのか。避けうるべき対象は強い記憶の対象となるのかもしれない。憎しみや恨みつらみ、妬みなどは、大小はともかく皆同じ形をしているのだと思う。それは初めから誰もが生まれ持ってきたものだ。本能にプログラムされた自己防衛の為の機能なのだと思う。

僕はそれを汚いとは思わない。ただ、誰かがどんな意図を持って自分を傷付けたとしても、それは裏側を考えれば、それは彼が自分を守るための手段の一つという場合があるのかもしれないな、と思う。

僕は彼の話を聞く。

若い頃に市電の運転手だった頃の話を、何度も、何度でも。

僕は彼を慰める。

ぶつけた脇腹が痛んで「こんなんじゃ死んだ方がましだ」と嘆く彼を。

僕は彼の手を握って笑う。

新しいデイサービスの場所を、新しい仕事場と思っている彼が「俺なんか半身不随で何も出来やしないのに、何の役に立つんだろうか」と言って、さめざめと泣いた彼の手を取って。

僕は「大丈夫だよ、心配ないよ」と言う。

心から。

目尻に涙を溜めた彼は笑って「俺も頑張るから、お前も頑張れ」と返してくれた。

そういうところに、本能と憎しみだけではない、人間っていう存在の本質があるのかもしれないな、と思う。