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Dialog - somewhere in the World.

きっとどこかにある日常

どこにでもある言葉は聞きたくないの

彼女と喧嘩したんだ、と彼は俯きながらそう言った。窓の外で降り始めた雨が微かな雑音を立てて、珈琲の湯気を揺らしている。彼は俯いたまま、頭の中に残った彼女の言葉を反芻するように、呟いた。彼女はこう言うんだ、私のこと、本当に愛してるの?って。

店内はジャズピアノが静かにかかっていた。僕は珈琲を飲みながら彼の姿を見る。いつだったか、僕も以前付き合っていた女性に同じように言われたことがあった。その時の僕は、愛というものに対して特別な注意を払わなくたって、肩書の上に信頼と所有欲と気遣いとその他諸々を相手に対して投資をした結果として、それは自然と付いてくるものだと思っていたからだ。

愛ってなんだろうな、と僕は誰ともなく問いかける。それは答えのない問いだと思う。何故ならそれは一定の答えを持たないからだ。恋人との関係がある一定の期間を超えたら?  肉体関係が円熟を迎えたと感じたら? おそらくは積み重なった記念日の末に得られるものでは、きっとないのだ。

愛とはたちこめる霧に包まれたひとつの星だ、だなんてどこかの詩人は言ったけれど、霧は晴れるのを待つしかないってことだろう、と彼は自嘲気味に言った。それにきっと彼女の言う愛って言葉は、彼女にとって都合の良い男になることなのかもしれない。俺と彼女はよく喧嘩をするし、それはだいたい意見のすれ違いによるものだ。俺はその差を埋めようとたくさんの言葉を尽くしてきたけれど、挙句にそんな言葉を言われてさ。きっと彼女は自分の意見を認めてくれる相手がほしいだけなんだよ。

静かな雨音が少しずつ強くなる。僕は彼の言葉から彼女を夢想する。典型的な女性というものに、いつだって男は悩まされるのだ。僕らにとって性別が違う、というのは、やもすれば生まれた星が違う、と言ってもいいくらいの差異を感じるのだった。ただ、大抵の女性はそのことを考慮することはないし、二十代そこそこの彼女が、彼にとっての唯一の宝物である客観性まで考慮して会話してくれるとは思えなかった。

彼女はそう言っていたのかい、と僕は彼に尋ねる。彼は首を振って、彼女のことは何もわからない、と答える。それならどうして彼らは付き合ったのだろう。僕は彼女よりも彼のことが少し気になって聞いてみる。初めからそうだったわけじゃないだろう。少なくとも付き合うことになった時、何もわからない相手とそうなりたいとは思えないんじゃないか。

彼はバケツいっぱいの客観性に自分の意見を漬け込んだような言葉を吐く。今だって、初めからだって、俺は彼女のことを少しもわかっていなかったのかもしれない。彼女は怒るたびに俺にこう言うんだ。どこにでもある言葉はもううんざりだって。あなたの言葉は全て誰かの借り物なんでしょうって。だってしょうがないだろう、俺は昔からそうだったし、俺自身の言葉なんかよりも良いことを言っている人なんて歴史上に山のようにいるんだ。それを知っていて、自分の言葉よりもよっぽど説得力だって、ユーモアだって、含蓄だってある。それを聞くことは彼女にとっても豊かなことであるはずだろう?でもやっぱり彼女は、いつも最後にはこう言うんだ。どこにでもある言葉はもううんざりなのよ、って。

人は恋愛を語ることによって恋愛するようになるって言葉もあるじゃないか、と僕は彼に言った。パスカルだね、と彼は答えて、大きなため息をついた。彼女は一体何を求めているのか、俺にはもうこれ以上考えつかないし、どうしようもないよ。彼の言葉は、店内に流れるジャズピアノの装飾音符に溶け込んでいった。

喫茶店を後にして、僕らは傘をさす。雨音がパラパラと叩いて僕らの間の沈黙を埋めていった。僕は君のそういう、いろんな言葉を知っていることはとてもすごいと思うんだけど、でも彼女はそれが嫌なんだろう、と僕は言う。もしかしたら彼女は学歴コンプレックスなのかもしれない、と彼は雨音の向こう側で答えた。彼女が僕の引用した言葉を知っていたことはこれまで一回もないんだ。

だとしたら、と僕は思う。だとしたら、彼女はどれほどの寂しさを抱えていたのだろう。彼の客観性は誰しもが羨むほどだった。説得力という意味では右に出るものはいないと僕は思う。けれど世界で唯一、世界で一番彼に近いところにいる彼女にとっては、彼は世界が羨むほどの鞭撻者ではなくて、得体の知れない歩く名言辞典にしか見えなかったのかもしれない。

そう、だとしたら、だった。もしかしたら僕らが性別の差だの愛だのコンプレックスだのと論じていることは全くの無意味な議論であって、彼女が彼に求めていることはただ、最もシンプルな願いに過ぎないのかもしれなかった。僕は彼にこう尋ねる。

君、雨は好きか?

雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる、と彼は答えた。ボブ・マーリィの言葉だった。彼は続ける。俺は前者になりたいし、だからといって後者ってわけでもないよ。

雨音を通して聞こえた彼の声は、少しばかりの沈黙を雨に委ねた後、こう付け加えた。俺が子どもの頃は、雨に濡れながら遊ぶのが好きな子どもだったんだ。

そして彼はおもむろに立ち止まって傘を閉じ、目を閉じたまま上を向いてしばらく雨に身を委ねていた。彼の髪が雨に濡れていく。彼の整えられて乱れのないジャケットが徐々にびしょ濡れになっていって、しかし彼は全く動かず、言葉も発さなかった。雨音は次第に弱まっていって、僕は傘をさしたまま彼の隣でそれを見ていた。

静かに、静かに雨が止んで、雲の合間から細く長い光が彼をすくい上げるように照らし、そうして彼は、ゆっくりと目を開けて言う。

──今も、昔も。何にも変わっちゃいないな。

僕らは笑う。彼の顔から悩みは消えていて、僕は彼に言う。それでいいと思うよ。彼は濡れてくたくたになった髪をかき上げながら、子どもみたいに笑って答える。ああ。ありがとう。

彼と彼女の関係がその後どうなったかはわからない。結局彼はそう簡単に変わるものじゃないのかもしれないし、もしかしたら彼女が諦めと前進のために自ら変わったのかもしれない、あるいはそのどちらもが起こったのかもしれない。どちらにせよ、きっとそうやってぶつかりながら、悩みながら、びしょ濡れになりながら、それでも向き合うことを諦めないことで、僕らはわかっていくのだ。

愛なんてものは、どこにでもある言葉じゃ、語りきれるはずがないのだから。