Dialog - somewhere in the World.

きっとどこかにある日常

雨と珈琲にさよならを

雨の匂いだ、と先輩は言った。昼とは違って随分落ち着いた気温は、むしろ寒いくらいだった。先輩の頼んだオレンジジュースは氷が沢山入っていて、必要以上に冷え冷えとしていた。窓の向こう側で、気付いたら雨が降っていて、また気付いたら晴れ間が広がっているような日がここ数日続いていた。僕らがいる学生食堂のテレビからは、今年の梅雨は長引きそうですとニュースキャスターのハリの良い声が響いている。食堂の入口付近にいると、落ち着きのないドアが開いたり閉まったりを繰り返しながら、傘を持った人を吐き出し続けているのが見えた。そのたびに先輩はそちらの方を向いて、もう一度呟く。

──雨の、匂いがする。

高校生の頃、先輩は珈琲が好きだった。まるで漫画のように、ビーカーに入れた挽きたての珈琲が好きだった。けれどぼくの知る限り、ある日を境に誰かの前で飲むことは一度もなくなった。もちろん、僕の前でもだ。ただ彼女は雨が降るといつも半自室と化している生徒会室から降りてきて、理科室の背もたれのない椅子に座りながら静かに珈琲を淹れていた。

僕はこっそりとその姿を教室の外から眺めていた。彼女はその静謐な空間の中に閉じ込められているようにそっと珈琲を飲む。雨音に冷やされた吐息が一瞬だけ曇る。遠くから眺めている僕がそこに入ることは出来なかった。直接禁止されたわけではなかったけれど、そこは彼女以外に入ることの出来ない場所であることは見ているだけで僕にもわかったからだ。ここはいつも僕と先輩のいる生徒会室とは違う、ビーカーに入れられた珈琲が置かれた理科室であって、それはただ彼女のための空間だった。

先輩は、と僕は言った。それは今思えばとんでもない驕りと傲慢と嫉妬から出た問いかけであって、それでも僕は彼女に『先輩』であり続けて欲しかったのだと思う。誰の意見にも左右されず、明確な正しさと本質を見極める強く凛々しい彼女の言葉に魅了されていて、きっと心の何処かで許せなかったのだ。雨が降ると、そんな彼女がまるで一人のか弱い少女のような顔をしていることが。

──先輩は、一体誰と珈琲を飲んでいるんですか。

僕の質問に対して、先輩は今までにないくらい儚げに微笑む。それが僕にはどうしようもなく悔しくて、そして僕はあの理科室の空間に入ることは二度とないのだと、直感的に悟ってしまったのだった。

雨の日の先輩は、いつも二杯の珈琲を注ぐのだ。そして誰もいない理科室で、濡れた窓の外を眺めながらそのたった一杯の珈琲を静かに飲み干す。その情景はまるで絵画のようだった。寒くて、悲しくて、そして美しい静止した世界がそこにあって、僕はそれを見ているだけの鑑賞者でしかなかった。

そうして数年が経って、先輩と僕は大学生になり、先輩は理科室で珈琲を飲むことはなくなった。

学生食堂のニュースキャスターは梅雨の予報について話し終えた後、学校の屋上から飛び降りた教師の動機について書かれた遺書の一部を読み上げていた。それは密やかに逢瀬を重ねていた女子生徒に向けて、自分の事は忘れて幸せになってほしいという素朴な願いだった。

雨は静かに窓の向こう側で降っている。先輩は傘を持って立ち上がり、行こうか、と僕を促した。

キャンパスの地面はまるで湖の表面みたいに水浸しで、その中を先輩は優雅に歩いていく。僕の靴には先輩みたいにヒールがないのですぐにびしょ濡れになった。同じように傘をさしているのに、先輩の周りは雨が避けていくようだった。どこに行くんですか、と僕は問う。君が昔、知りたかった事だよ、と先輩は振り向かずに答えた。キャンパスの隣には大学の附属病院があって、先輩はその門の前で少しだけ立ち止まった。高くそびえ立つような建物は白く、清潔で、この世のすべての生を飲み込んで泣いているような色をしていた。

その病室にはやせ細って真っ白になった人が横たわっていた。きっと何年もそこにいたのだろうと容易に予想できるくらい、真っ白な病室に溶け込むような姿だった。

先輩はその人の骨張った手をそっと握って、祈るように顔を伏せる。どれだけの時間、そうしていたのかはわからない。数分だったのか数十分だったのか、医療機器の静かな動作音の他には全くの無音に近いその部屋の中で、彼女は静かに泣いていた。嗚咽も漏らさず、一滴の涙も流さず、ただその情景は先輩がそこで泣き叫んでいる事を僕に伝えていた。

彼女は何度、そうやって彼の手を取り、祈り、そして泣いたのだろう。一度でも彼がその手を握り返し、泣かなくていいと言葉をかけることがあっただろうか。そして涙が流れなくなってなお、何度彼女はここに通ったのだろう。静かに、静かに時が止まった空間がそこにあって、そうしてその場に僕はいなかった。そこにはビーカーに入った淹れたての珈琲が持っていたであろう少しばかりの慰めすらなく、無機質に冷たい現実が満ちていただけだった。そして僕は、その場に踏みとどまることだけで精一杯だった。

溺れてしまいそうな悲しみがその空間に満ちて、僕が挫けてしまいそうになる直前に、先輩は優しく彼の手をベッドに置いた。そしてそのまま振り向かずに、君に頼みがあるんだ、と僕に言った。僕は動かなかった。自らの傲慢と嫉妬に満ちた自分をこの世から消し去ってしまいたいほどに、この空間は美しく清廉だった。僕はあらゆる色の抜け落ちた声で答える。何か、僕に出来ることがあるんですか。

先輩は振り向いて、僕の方に手を向ける。僕はぼんやりとその白く細い手を見る。滑らかな、陶器を思い起こさせる美しい手があって、小さく震えていた。

助けて、と先輩は言った。か弱く儚い少女のように、先輩の声の中で雨が降っていた。君が連れ出してくれないと、私はここで、死んでしまうかもしれない。

僕は彼女の手を握る。あたたかく、柔らかく、そして華奢で、小さな手だった。向かい合って繋いだ手の上に、先輩から流れ落ちた熱い滴が、いくつも手のひらを滑り落ちていった。ごめん、と先輩は言う。一滴が落ちるたびに、先輩は嗚咽の混じった声で言った。ごめん。ごめんね。ごめん──。

雨のようにその言葉は僕に降り、そして僕は傘もささずにそこにいた。そうする事でしか、彼女を受け止めることが出来なかったし、これからもきっと、沈黙以上の言葉を彼女にかけてあげられるほど立派な人間にはなれそうもなかった。

 

病院の門を出ると、柔らかな雨が傘を叩き、軽い音を立てて弾けた。一つの傘の下で、先輩は手を繋いだまま、ぽつりと僕に言う。

珈琲、飲みに行こうか。

僕は静かに頷く。雨はもう、降ってはいなかった。