読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Dialog - somewhere in the World.

きっとどこかにある日常

優しいだけでは救えない

僕らは揃って黒いネクタイと黒いスーツに身を包んでいた。窓の外では冷たい雨が厚い雲から降り出そうとしていた。僕と彼はカウンターに座っている。雨の音はまだ聞こえない。

イカロスの翼を知っているかい、と彼は話し出した。蝋の翼を作った大工ダイダロスはイカロスに忠告する。「イカロスよ、空の中程の高さを飛ぶのだよ。あまり低く飛ぶと霧が翼の邪魔をするし、あまり高く飛ぶと、太陽の熱で溶けてしまうから。」……その忠告をよそに、彼は上へ上へと飛び上がってしまう。その太陽に照らされて蝋の羽根は溶け、イカロスは地に落とされて死んでしまった──。

僕は頷く。英雄テセウスミノタウロスを倒し迷宮を脱出したために、迷宮の造り主であるダイダロスとその息子イカロスが幽閉されたことを思い出す。実は、と彼は続ける。あのイカロスの翼と英雄テセウスの話は別の話だったんだと思う。イカロスの翼は進みすぎたテクノロジーに対する警告だとか傲慢と勇気であるとか、そういう見方をされることが多いけれど、元の話はラブストーリーだったんじゃないかと思うんだ。彼はそう言いながら手元にある珈琲のカップをそっとつかむ。ギリシャ神話の太陽神、ヘリオスは──女神だからさ。

彼女は愛する男の救い主になりたかった。そんな彼女を俺は好きだったんだ、と彼はこぼした。彼女の優しさを享受できる彼がうらやましくて仕方がなかった。けれど俺は彼にはなれなかったし、彼女は俺を選ばなかった。おまえも知っているとおり、俺と彼は親友だった。彼と彼女は実際上手くやっていたし、誰の目から見てもお似合いのカップルだったと思う。それでも綻びの始まりは見えないところで起きた。きっかけは些細なことだ。ある日彼はひどい失敗をして、彼女にそれを慰めてもらった。彼女は落ち込む彼に出来る限りのことをした。彼が望んでいたその通りの優しい言葉と触れ合いによって、彼女は彼の傷を癒やした。そしてそれは繰り返された。ただそれだけのことだ。

相手が求めているものを見抜き、それを与えることについて言えば、彼女は常人が到達しえないほどの洞察と正確さを持ち合わせていた。そのような突出した能力を持っていた。そしてとても残酷なことに、彼女はそれを彼だけにしか使わないことを決めたのだった。

彼は、私がいないと生きていけないの。

その言葉は優しさの暴力に満ちていた。彼女は弱く脆い彼の救い主になりたかった。二度と傷つくことのないように、傷つけば癒し尽くすための能力を持ち合わせていた。持ち合わせてしまっていた。女神はその全知全能の恩寵を彼にだけ与えた。

そうして彼は破滅した。彼女が彼を愛し、彼が彼女を愛する余りに破滅した。彼女の優しさという熱量はイカロスの翼を奪い取ってしまったのだ。

私も、彼がいないと生きていけないの。

誰の手にも負えなくなって精神病棟に入れられた彼を厚いドア越しに眺めながら、彼女はそうつぶやいた。俺は何も言えなかった。何も出来なかった。彼女は完璧であったはずだった。彼女は唯一無二の優しさをもって彼の幸せのために尽くしてきたはずだった。それが誰よりも二人の近くにいた俺にはよくわかったし、だからこそ、その代替なんて誰にもできないことはわかっていた。

なあ、と彼はうつむいて尋ねる。俺はあのとき、どうすればよかったんだ。君のせいじゃないと言ってあげればよかったのか。彼女の目を彼から遮ってあげればよかったのか。彼の目の前にある黒い水面は答えない。教えてくれよ。俺はどうしたら、彼女を喪わずに済んだ?

静かな沈黙の中を、雨音が通り過ぎていく。僕は珈琲のカップを持ち上げる。嗚咽のような軽く金属がこすれる音がした。どんな言葉をかけたって、きっと正しくはないし、きっと間違いでもない。この場において唯一ふさわしい言葉を与えてあげられる女神は、もうどこにもいない。

祈ろう、と僕は言った。女神でも英雄でもない僕らにできることはそれくらいなのだと思う。何の神に祈るかなんて関係ない。ただ僕らに許されているのは、そのどうしようもないやるせなさを言葉にすることだけであって、それを人は祈りと呼ぶのだ。

ダイダロスは言った。高すぎても低すぎてもいけない。僕らの間にあるちょうどいい距離は、きっと優しさなどでは埋まらないし、つなぎ止めもしないだろう。救いは必ずしも優しいカタチをしているわけではないのだ、と僕は思う。 彼は祈りの中で彼女を思い出すだろう。遠く手の届かない場所で輝いていた彼女を。そしていつか彼女との適切な距離を見つけるだろう。彼がついに口にすることのなかった蝋の羽根が羽ばたくそのときまで、僕らの祈りは続いていくのだ。

黒いネクタイを緩める。彼は珈琲を一口だけ飲んで、そっと静かにカップを置いた。

窓の外からはもう、雨の音は聞こえない。